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2012年9月10日月曜日

ICU教会の結婚式


ICUサービスHPより

 新入生をうつくしい花で迎えた滑走路の桜並木も、新緑の頃をむかえ、すっかりそ
の趣を変えた。その桜並木を抜けると、姿をあらわすのが壁面に大きな十字をつけた
ICU教会だ。ふだんは大学のチャペルとして学生にはおなじみだが、ここは同時に教
会員の冠婚葬祭を司る大切な場所でもある。くしくも今月はジューン・ブライドの月。
そこで今回はICU教会での結婚式にフォーカスしてみようと思う。
 
 ICU教会で挙式できるのは、新郎新婦の少なくともひとりがICUの関係者かICU教会員
であること、とされている。予約が多いためということもあるが、結婚式場ではない
ため、ICUにゆかりのない方に対して式を挙げる以上のことを提供できないから、と
北中晶子牧師は説明する。
 
 それでは、いつごろから結婚式は行われてきたのだろうか。ICU教会が完成したのが
1954年。はっきりといつから式が行われたかは不明だが、1953年から二年間ICUで教
鞭をとった神学者エミール・ブルンナーが式を挙げたのがはじめてというから、ほぼ
教会完成と同時にはじまったと言える。時が経つにつれ、ノンクリスチャンのひとも
教会で結婚式をあげることがめずらしいことではなくなり、現在は一年に五十件程度
の式が行われている。つまりひとつき約四、五件。2010年からは学生食堂で結婚披露
宴を行うこともできるようになった。
 
 今回取材をお願いした北中牧師は、ICU教会に赴任されて二年たつ。だが、ICUにい
らっしゃる牧師は宗務部の永田竹司牧師、ポール・ジョンソン牧師、そして教授であ
り牧師でもある先生方など数人であるため、北中牧師の担当された式の数は「数えき
れないくらい」。そしてその中で、考えさせられたことは“キリスト教とノンクリス
チャンの関係”だという。
 北中牧師は、ICU教会に赴任されるまでノンクリスチャンのひとが教会で結婚式をあ
げるということにあまり触れたことがなかったそうだ。教会を模した結婚式場やキリ
スト教式の挙式には触れたことがあってもだ。だが、ICU教会で多くのノンクリスチャ
ンの挙式を挙げるうちに、“ノンクリスチャンの人に、キリスト教にたずさわる者と
してできることがあるんだ”と感じたという。
 
 ところで、みなさんの中にはジューン・ブライドを夢見ている方もいるだろう。そ
のジューン・ブライドの大敵はなにか想像がつくだろうか。梅雨、である。雨が降っ
ているときにちょっとした問題になるのが、ブーケトスだ。晴天の場合は、式が終わっ
たあと教会のすぐ外で列席者が縦に並び、花嫁が教会の階段から花束を投げる…のだ
が、雨の場合はそうはいかない。しかたなく教会の入り口のちいさな屋根の下で、列
席者はところせましと横並びになる。当然花嫁のブーケトスは近距離だ。そういうと
きは必ずと言っていいほど笑いがおきるのだが、「それはそれでこじんまりとしてあ
たたかい感じで、いいですよ」と北中牧師はほほえむ。
 
 最後に何か思い出のある式はあるか、という問いに、北中牧師はすこし考えたのち、
「べただけど、ひとつひとつ(の結婚式)いいんですよ」と答えた。だが、印象的だ
というのは、昨年の震災の影響で挙式を先送りにしていたひとたちの式。人生でほん
とうに大切なものはそれほど多くはない、そしてあたりまえに存在するものではない
という想いとともに一年をすごしてきたであろうひとたちの式だ。そんな彼らの式は、
ほかにもまして、いっそう深いものになるのだろう。
 
 在学生であるみなさんは、すでにICU教会で結婚式を挙げる権利を手にしている。六
月のみどりの風のなかで、ほんのすこし先の未来を見つめてみるのもいいのかも、し
れない。

ICUで、自殺を考える


Ⅰ. ICUの自殺現状


3万人。 この数字が何を示すかご存知だろうか。 これは、日本における年間自殺者数である。つまり毎日90人が自殺はしている計算になる。日本が“自殺大国”と呼びならわされるようになって久しいが、みなさんは大学の、そしてICU内での自殺問題について考えたことはあるだろうか。 自殺を自分にひきつけて考えることを、とかく私たちは回避してしまう。しかし、それをしっかりと正面から見つめることで、いままで見えなかったものが見えてくるようになるのではないか。自分を、そして他者を見つめなおす機会になるのではないか。 今回は特に“身近なものとして自殺を見つめる”、また“ICUの表面化しない事実を知る”という目的から、ICU内にフォーカスして“自殺”を考えていきたい。 まず、具体的な事実を提示しよう。今年に入って自殺者はいない。しかし、毎年ひとりの確率で、自殺または未遂はおきている。 このような現状を知るのは学生部長や学部長など学内でも若干名だと思われる。その背景には亡くなった学生の保護者への配慮が第一にあるが、自殺をあってはならないこととしてタブー視する風潮があるからではないかと西尾隆先生(学部長)は指摘している。 自殺を考えたことがある、もしくは自殺を図ったことがある学生の中には、いわゆる“ローグレ”(Law Grade)による退学勧告を受けた者も少なくない。もともと鬱傾向にあるため成績不良になるひともいれば、成績不良で鬱状態になるひともいる。西尾先生は毎学期三十人前後の除籍対象者との面談をするというが、面談中に涙を流し、胸のうちを明かすひともいる。その中で、線路に飛び込んだ、樹海に行ったことがある…などの話も聞くという。 「(面談中に)何かのはずみでふっと話してくれることもありますね」と西尾先生。先生自身も娘さんの同級生の自殺に衝撃を受けた経験がある。また担当授業を受講していた学生の死にもあった。その学生が自分から手を挙げてプレゼンをした時のレジュメは、あまりに意外だったのでいまでも保管しているという。  「語弊があるかもしれないけど、一度死のうとして生きたひとは、より豊かになるんじゃないかと思う」西尾先生は言う。「でも、“生きることが大事”だよね」 では、“その死のうとして生きたひと”に死を考えさせたものは何か。彼らの、悩みの原因は何だろうか。

Ⅱ. 自殺の原因とは―“悩み”は何か―

 YouthLinkをご存じだろうか。  NPO自殺対策支援センターライフリンクの中で生まれた、休学している大学生や学校に生きづらさを感じている学生のための団体だ。設立のきっかけはライフリンクの学生意見交換会での「生きるのがつらい」という休学生の声。月二回ほど飯田橋で開かれるVoice sharing(語らいの場)で、おたがいの思いを語り合うことがメイン活動だ。関東のみならず近畿地方、北陸地方から始発の鈍行に乗ってやってくる学生もいる。 今回はYouthLinkのたちあげメンバーのひとり、柏原章人さん(ID15)に、自殺とつながる危険性のある、大学生の悩みについてうかがった。柏原さん自身も、ICU入学前他大学で二年間在籍していたが、生きづらさを感じほとんど学校には行けなかったという経験を持っている。 就活への不安。他人との比較による劣等感。そして、一緒に遊ぶことはあっても深いことを語り合えない友達関係。大学生が抱える悩みとしてVoice sharingでよくあがるのは、これらのことだという。そんな悩みから、休学生の中には鬱を抱えているひとも少なくないが、大学では深刻な悩みをうちあけられる友人がなかなかいないために相談できる相手もいない。そして鬱状態がひどくなり…というように、非常につらい思いをしているひとも多い。  ここまでは大学生全般に共通する悩みである。それでは、ICUならではの悩みの原因となるのは何なのか。これに対して、柏原さんは大きく次のふたつではないかと考察する。 ひとつは、“選択肢の多さ”。メジャー制、留学…確かにICUには多くの選択肢の中から選ばなくてはならないものがある。つまり悩むことも多いのではないか。そんな環境で、悩みを抱えるひとの中には、悩む自分を責めてしまうかもしれない。 もうひとつはICU生の外向性だ。ご存知のとおり、ICU生は非常に活発だ。兼部はあたりまえ、勉強もバイトもこなし、長期休暇には海外へ飛び立つひとも多い。そのなかで、周囲のひとと比べて、自分は何もしていないという嫌悪感から鬱状態に陥る可能性もあるという。このことは前章でお話をうかがった西尾先生も指摘されていたことである。 しかし、「悩んだだけ10年後、20年後の自分が豊かになっていくのでは」と柏原さん。「ただ、ひとりで抱え込むのはつらい。一緒に悩んでくれるひとを探すことが大切だと思います。同じ悩みを共有したひとのつながりは強いから。生きづらさがあるからこそ、他の(生きづらさを感じている人と)つながれて、生きづらさが生きやすさになるんです」

Ⅲ. 自己存在の希薄化とは

 最後に、別の視点から自殺について考えてみたい。  お話をうかがった尾崎洋平さん(ID14)は、前章でも登場したNPO自殺対策支援センターライフリンクで、学生アルバイトをしている学部3年生だ。 毎日90人が自殺する国、日本。自殺率を見ても、アメリカの2倍、イギリスの3倍(注) と、先進国の中でも突出した数だということがわかるだろう。そんな日本社会の、普段は表面化してこない側面を見てきた尾崎さんが考える、自殺の原因とはなんだろうか。さまざまなお話をうかがったなかで、ここでは特に“自分の存在意義の希薄化”をとりあげてみたい。 いま、日本社会全体で他者との関係、社会との関係が薄れている。つまり、“自分”の存在を認めてくれる“他者”という存在とのつながりが希薄になっているのだ。そんな中、“自分なんていなくてもいいのではないか”と、自分が存在することの意義を肯定しにくくなり、時としてそれが自殺につながってしまう。 それでは、どのように“自分の存在意義”を取り戻していけばよいのか。それには、なんらかのコミュニティの創出が鍵であるという。 コミュニティは地域でも、前章でとりあげたYouthLinkのようなものでもいい。要は、誰かから心配されている、気にかけてもらえるということが実感できる場所が大切なのだ。実際、フィンランドなどでは自殺防止のためのコミュニティ作りが積極的に行われており、効果を見せているという。その点、少人数で個々の関係性が親密なICUはコミュニティの創出も比較的容易なのではと尾崎さんは分析する。ただ、その関係の緊密さから閉塞感が生まれる可能性もあり、コミュニティへのコミットの度合いは自分の価値判断と照らし合わせて個々で考える必要性もある。 最後に西尾先生や柏原さんが指摘されていた“ICU生は活発な人が多いから、その比較から劣等感に悩まされ、自殺に至るケースが多いのでは”という点をお話してみた。それに対する尾崎さんの反応は「その“活発な人”ほど危ない」ということだった。 尾崎さん自身、高校時代は“活発”だった。ところが17歳の頃、何の特別な理由もなく人と話すことが苦痛になってしまう。病名は、SAD(社交不安障がい)。心の病は誰にでもおこりうることだということを、尾崎さんは身をもって感じたという。“活発な人”ほど危ないというのは、「自分は活発な人間(=心の病とは無関係)なはずなのにどうして」という焦りが、更なるストレスを生む可能性があるからだ。  この“自分は心の病とは無関係”という感覚に、尾崎さんは警鐘を鳴らしている。この感覚が、自殺に対する無関心を生み、更には自殺防止の制度的な遅れをもたらす可能性があるからだ。ICUでもなかなか“自殺”が表面化してこない理由のひとつも、ここにあるのかもしれない。

Ⅳ.最後に

 「ICUで、自殺を考える」と銘打って、三人の方に取材を重ねてきた。この記事の目的は、前述したように“身近なものとして自殺を見つめる”“ICUの表面化しない事実を知る”ということである。ここまで読んでくださった方は、自分が自殺を巡る問題の“他者”ではなく、“当事者”であると感じていただけただろうか。そうして“自殺”に向き合ったいま、私たちは何を考えていくべきなのか。  繰り返しになるが、まず認識すべきは私たちが、悩みと、病と、更に言えば死と、隣り合って生活しているのだということだろう。それは、先に述べた三人の方への取材からお分かりいただけると思う。ICUにも実際に自殺者がいるということ、心に病を抱えたひとがいるということ。病は、たちどまっている人の中にも、一見活発に活動している人の中にも、そしてあなた自身の中にも、潜んでいる。  そして、もうひとつ重要なのは自己肯定、他者肯定だ。西尾先生によると、ご自身がICUの学生でいらした頃は「悩むことは悪いことじゃない」という風潮があったが、いまの学生はさまざまな競争を強いられ、“できない”“やらない”ことへのネガティブな感情が強いのではないかという。  大学という知の集合体において、膨大な知識の洪水の中、つい忘れがちな“自分が自分であること”の重みを、悩みあるひともないひとも、もう一度感じていただきたい。友達との関係の中で、家族との関係の中で、そして自分と向き合う時間の中で。それこそが、自殺をめぐる問題に対して、ICUに生きる私たちが自分のために、他者のためにできることなのではないだろうか。  非常に僭越な文章ながら、この記事を通して少しでも何か感じていただけたなら、うれしい限りである。  最後になりましたが、お忙しいなか時間をかけて取材に応じてくださった西尾先生、柏原さん、尾崎さんに感謝申し上げます。皆さんの取材時のご協力が本当にはげみになりました。時間が許せばもっと深化させた記事を書きたいと思いましたが、それはわたし個人のこれからの課題にしたいと思います。本当にありがとうございました。(松本苑子) (注)清水康之、上田紀行著『「自殺社会」から「生き心地の良い社会」へ』(2010年、講談社文庫)より